ビッグブラザーが支配する独裁国家イースタシアの国民は、真理省管理下のテレスクリーンによって24時間監視され、密告等により反体制側と推定された者は、愛情省の思想警察に連行されて尋問と拷問を受けます。党を愛させるように洗脳し、最後には処刑されます。
真理省と愛情省は事実を隠し国民の認識を操作するため、二重思考と二重語法を駆使して党の三大スローガンを掲げています。
1.戦争は平和である。2.自由は屈従である。3.無知は力である。
国連特別報告者のデビッド・ケイ氏は、スイス・ジュネーブで開かれた国連の人権理事会で放送法4条と特定秘密保護法に「メディアに及ぼし得る直接・間接の圧力を特に懸念している。メディアが罰を恐れて情報が開示されなくなる懸念がある」と報告し、国連特別報告者のジョセフ・ケナタッチ氏は、共謀罪法案に「プライバシーや表現の自由を不当に制約する恐れがある。私の友人が、手綱や鞍などの安全装置を使わずに馬に乗ろうとしているようなもの。友人に対し、落馬の危険があるということをまず伝える義務があると思った。」と警鐘を鳴らしました。

以下、映画監督伊丹万作の「戦争責任者の問題」から抜粋しました。
『また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。』(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月掲載)……rangert1
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